企業・製品DB
ジェンスン・フアン:デニーズの皿洗いからNVIDIA CEOへ
この「30日」という表現は比喩ではなく、創業当初から使い続けている言葉だと本人は語っています。
実際、その恐れは的外れではありませんでした。
NVIDIAは創業から数年で経営破綻寸前に陥り、競合の温情ある支払いのおかげで生き延びています。
その後もCUDAという技術に約10年間投資を続けました。
当初は勝ち目の薄い投資にしか見えなかった技術です。
2026年半ばまでに、同じ会社が彼を世界屈指の富豪にし、台湾では帰郷のたびに熱狂を呼ぶ存在にしました。
要点
- NVIDIAは創業から数年で経営破綻の危機に陥った。最初のチップ「NV1」は失敗したが、競合セガの契約支払いが、会社を救った「RIVA 128」開発の時間を稼いだ。
- フアン氏は、市場が見えないまま10年間CUDAに投資を続け、2012年のAlexNetの成功でその判断が正しかったと証明された。
- NVIDIA株の保有によりフアン氏は世界屈指の富豪になった。

1993年の創業以来、NVIDIAの共同創業者兼CEOを務めるジェンスン・フアン氏。2023年11月、生まれ故郷である台湾で開催された第1回「李國鼎賞」の授賞式にて。同氏の帰郷は、後に「ジェンサニティ」と呼ばれる現象にまで発展していきます。
写真: 台湾総統府、CC BY 2.0、Wikimedia Commons経由01生い立ち:台湾からオレゴン州アロハへ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1963 | 台湾で誕生 |
| 1968 | 父親の仕事の都合で一家がタイ・バンコクへ移住 |
| 1973 | 家族に先立って渡米。手違いでケンタッキー州オナイダ・バプティスト・インスティテュートに入学 |
| 1975 | オレゴン州ビーバートンで家族と合流。アロハ高校へ転校 |
| 1978 | 全米屈指の卓球ジュニア選手に。地元デニーズで深夜シフトのアルバイトも |
| 1984 | オレゴン州立大学を電気工学専攻で卒業 |
| 1992 | スタンフォード大学で電気工学修士号を取得。デニーズでNVIDIA創業の構想会議が始まる |
| 1993-04 | クリス・マラコウスキー氏、カーティス・プリーム氏とNVIDIAを共同創業 |
| 1996 | 「NV1」の商業的失敗を受け従業員をほぼ半減。セガの最終支払いで存続 |
| 1997 | 「RIVA 128」が発売され、会社を立て直す |
| 2006-11 | NVIDIA、CUDAを発表 |
| 2012 | NVIDIA製GPUで学習した「AlexNet」が、深層学習向けGPUの有効性を実証 |
| 2019 | オナイダ・バプティスト・インスティテュートに200万ドルを寄付。新棟「Huang Hall」に |
| 2025-04 | NVIDIAの「H20」チップに輸出許可義務、45億ドルの費用計上。石破茂首相が東京でフアン氏の表敬訪問を受け入れ |
| 2025-05 | Computex台北でパパラッチとファンに囲まれる「ジェンサニティ」現象が話題に |
| 2025-08 | 米政府がH20の対中輸出許可の発給を再開 |
| 2025-10 | NVIDIA、時価総額5兆ドルに達した初の企業に。フィナンシャル・タイムズ「Person of the Year」に選出 |
| 2025 | クイーン・エリザベス工学賞を共同受賞 |
| 2026-01 | H200の対中輸出規制を緩和、25%の関税付きに |
| 2026-03 | 委任状勧誘資料でNVIDIA株8億7,060万株(3.58%)の実質保有が判明 |
| 2026-05 | 台北新本社関連の社員イベントのため再訪。6月1日には台北流行音楽センターで基調講演 |
| 2026 | 2026年IEEEメダル・オブ・オナー受賞者に選出 |
ケンタッキー州、寄宿学校の手違い
ジェンスン・フアン氏は1963年、台湾で生まれました。5歳頃、化学エンジニアだった父親の仕事の都合で一家はタイに移り住み、バンコクのインターナショナルスクールに通いました。タイの政情不安を受けて一家は米国への移住を検討し始め、1973年、フアン氏は兄とともに家族に先立って、ワシントン州タコマに住む叔父のもとへ送られます。国籍は台湾と米国の二重国籍です。
叔父は良い進学校に入れたつもりでしたが、実際に2人が入学したのはオナイダ・バプティスト・インスティテュートでした。ケンタッキー州の田舎にある宗教系の矯正学校で、もとは1890年代、クレイ郡で殺し合いを続けていた抗争中の一族どうしを止めるために設立された学校です。当時フアン氏は9歳。生徒には全員、日課の仕事が課されており、彼の担当は共同トイレの掃除でした。他の生徒たちはポケットナイフを持ち歩くほど気が荒く、喧嘩になると「きれいごとでは済まなかった」と本人は振り返っています。それでも数学が得意な年上の寮生に勉強を教えたり、水泳部に入ったりと、周囲になじむ工夫を重ねました。皮肉でも何でもなく、あの時間が好きだったとも語っています。「本当によく働き、本当によく勉強した」というのがフアン氏自身の言葉です。
それから数十年後の2019年、フアン氏は同校に200万ドルを寄付し、新しい寮兼教室棟「Huang Hall」が建てられました。
全米屈指の卓球少年、フロアを磨いて遠征費を稼ぐ
ケンタッキーでの2年間の後、フアン氏の両親はオレゴン州ビーバートンに落ち着き、兄弟は近くのアロハ高校に転校します。フアン氏は2学年を飛び級し、16歳で卒業しました。
この頃、フアン氏は本格的な卓球選手にもなっています。ポートランドのクラブ「Paddle Palace」を拠点に練習・出場を重ね、そのフロアを磨いて遠征費の足しにしていました。1978年1月、Paddle Palaceのオーナーだったルー・ボケンスキー氏がスポーツ・イラストレイテッド誌への投書で、10代のフアン氏を「太平洋岸北西部でこれまでで最も有望なジュニア選手」と評しています。15歳のとき、全米オープン卓球選手権のジュニアダブルスで3位に入賞しました。後にシアトル・ポスト・インテリジェンサー紙の取材には「あのスポーツは大好きだったが、学業ほど好きだったことは一度もない」と語っています。
オレゴン州アロハと、デニーズでのアルバイト
15歳から大学進学までの間は、地元のデニーズで深夜シフトのアルバイトをしています。皿洗い、テーブルの片付け、やがて接客まで担当したこの経験は、20年後、彼が別のデニーズをNVIDIA創業の場に選ぶという形で再び姿を現すことになります。
同じ仕事、20年越しの再会
02大学からチップ設計へ
フアン氏はオレゴン州立大学で電気工学を学び、1984年に首席級の成績で卒業しました。同大学は、後に妻となるロリ・ミルズ氏と工学系の実験室で出会った場所でもあります。その後、フルタイムで働きながら夜間の授業に通い、1992年にスタンフォード大学で電気工学の修士号を取得しました。
オレゴン州立大学卒業後、テキサス・インスツルメンツ、AMD、LSIロジックからスカウトされ、フアン氏はまずAMDでマイクロプロセッサの設計に携わりました。その後LSIロジックに移り、サン・マイクロシステムズなどを顧客とするグラフィックス・アクセラレーター技術の開発に従事します。この仕事を通じて、後に共同創業者となる同僚のクリス・マラコウスキー氏、カーティス・プリーム氏と日常的に関わるようになりました。フアン氏はLSIのCoreWare部門ディレクターにまで昇進した後、自らの会社を立ち上げるために退職しています。
NVIDIA創業までのキャリア
03NVIDIA創業
600ドルの元手と、「羨望」を意味する社名
フアン氏、マラコウスキー氏、プリーム氏の3人は、1992年後半、東サンノゼのベリエッサ・ロード沿いにあるデニーズで初期の構想を練る打ち合わせを重ね、1993年4月5日、正式にNVIDIAを設立しました。出資額は3人がそれぞれ200ドルずつ、合計600ドル。弁護士から、会社を正式に設立するには最低でもその金額を口座に入れておく必要があると言われたためだと伝えられています。社名「NVIDIA」は、「羨望」を意味するラテン語「invidia」に由来します。競合他社にいずれそう思わせたい、という3人の願いが込められた名前です。
この社名は、実は2つの流れが1つに合流して生まれたものです。プリーム氏は、自分のチップ設計・ファイルの仮ラベルとしてすでに「NV」(「次バージョン(next version)」の略)を使っていました。会社そのものの名前を決める段階になり、当初の第一候補だった「NVision」が、トイレットペーパーの既存ブランド「Envision」と紛らわしいことが判明。そこで他の候補を探し、ラテン語で「羨望」を意味する「invidia」にたどり着きます。この「invidia」の先頭の「I」を取ると「nvidia」になり、これがすでに使っていた「NV」とぴったり重なっていました。こうして2つのアイデアが1つの社名「NVIDIA」へと収束しました。
NVIDIAという社名の成り立ち
プリーム氏が自身のチップ設計・ファイルに付けていた仮ラベル。「次バージョン(next version)」の略。
断念。トイレットペーパーの既存ブランド「Envision」と紛らわしいことが判明。
「invidia」(ラテン語で「羨望」)の先頭の「I」を取ると、すでに使っていた「NV」とぴったり重なった。
経営破綻の危機と、競合からの命綱
NVIDIA最初のチップ「NV1」は、商業的に失敗に終わりました。当時NVIDIAは、これとは別に、セガの次世代ゲーム機(後のドリームキャスト)向けに、段階払いの契約でグラフィックスチップの開発を請け負っていました。開発が進むにつれ、フアン氏はNV1と同じ「二次曲面」方式のチップではセガの求める性能を満たせないと判断します。フアン氏自身の語るところによれば、自らセガに飛び、当時セガの社長だった入交昭一郎氏に対し、それを直接伝えたといいます。取引先に対し、事実上「この契約から手を引くべきだ」と助言したことになります。それでもセガは契約通り最後の500万ドルを支払い、NVIDIAはこの資金と半年ほどの時間的猶予を得ました。会社がここまで倒産に近づき、それを競合であるセガの支払いによって切り抜けたという経緯こそ、フアン氏の若き日のキャリアの中でもとりわけ印象的な一幕です。
NVIDIAはこの資金と時間的猶予を使い、マイクロソフトのDirectX規格に対応した正攻法のチップ「RIVA 128」を開発します。1997年の発売から4か月で100万個以上を売り上げ、会社を立て直しました。
関連記事
NVIDIAとGPUの歴史
「NV1」の失敗と、DirectX対応への路線転換「RIVA 128」の技術的な詳細まで扱っています。
NVIDIAの倒産危機と立て直し(1995〜1997年)
フアン氏は「会社が潰れるまであと30日」という言葉を、この30年以上、NVIDIAの心構えを表す言葉として使い続けてきたと語っています。誇張ではなく、今なお経営の前提として持ち続けている感覚だといいます。
04経営スタイル
組織図を固定せず、定例の1on1も設けない
フアン氏のもとでは、NVIDIAに従来型の階層的な管理組織はありません。2024年後半時点で、経営幹部・上級エンジニアら55〜60人ほどが直接フアン氏に報告する体制で、NVIDIAほどの規模の会社としては異例なほどフラットです。定例の1on1ミーティングも設けておらず、関係する幹部全員が同じ場で同じ説明を聞けるよう、フィードバックは集団の場で行うことを好みます。従業員は、優先事項や課題を短くまとめてフアン氏に直接メールで送ることもでき、本人は1日およそ100通に目を通していると語っています。フアン氏はこの発想の核心を、特定の管理職ではなく「ミッションこそが上司である」という言葉で説明しています。固定の報告系統を守ることよりも、その時々で最も重要な課題を軸にチームを組み替えることを優先する考え方です。
同規模の一般的な企業
- フィードバックは複数の中間管理層を経由
- 直属の上司との定例1on1ミーティング
- CEOへの直属報告者はごく少数
フアン氏のもとでのNVIDIA
- フィードバックは集団の場で、全員に同じ理由付けで一斉に伝達
- 定例の1on1ミーティングは設けない
- 55〜60人の経営幹部・上級エンジニアがフアン氏に直接報告
厳しい社風の背景に、自ら語る両親の影響
2026年5月、台湾の中央通訊社(中央社)の取材に対し、フアン氏は自身の厳しいマネジメントスタイルの背景を、育てられ方と結び付けて語っています。また、社員にAIツールの利用を控えさせるような管理職に対しては公然と否定的で、そうした制限を「正気の沙汰ではない」と評しています。
台湾人の親にとって、十分ということは決してなく、何かしらの指摘を受けない日は一日もない。
05会社の命運をCUDAに託す
多くの人が「沈黙」と呼ぶ10年間
NVIDIAが2006年11月に発表したCUDAは、グラフィックス専用の処理だけでなく、開発者がNVIDIAのグラフィックスチップ上で汎用的なコードを書けるようにするプラットフォームです。短期的な採算は厳しいものでした。チップのコストは上昇する一方、3Dグラフィックスの描画以外の目的でGPUを買う市場は、まだどこにも存在していなかったからです。フアン氏自身、CUDA発表の場について、会場がほぼ沈黙に包まれていたと振り返っています。誰もそれを望んでおらず、誰も求めておらず、誰もその使い道を理解していなかったといいます。それでもNVIDIAは何年もCUDAへの投資を続けました。GPUの並列処理能力を汎用的に使える手段を研究者に提供しておけば、具体的な市場がまだ見えていなくても、いずれ意味を持つはずだという確信からでした。
AlexNetという答え合わせ
その投資に答えが出たのは2012年のことです。トロント大学の研究チームが、NVIDIA製GPU上で「AlexNet」と呼ばれるニューラルネットワークを学習させ、画像認識の年次ベンチマーク「ImageNet」の精度を押し上げました。この結果は、GPU、なかでもCUDAこそがニューラルネットワークを大規模に学習させるための正しい道具だと、AI研究コミュニティに確信させた出来事として広く語られています。NVIDIA自身も、この瞬間を自社の「AI時代」の始まりと位置づけています。
CUDA開発者数の推移:各基調講演でのNVIDIA自己申告値(2021〜2026年)
NVIDIAは連続的な開発者数の統計を公表していません。ここに示すのは、フアン氏やNVIDIAが個別のイベントごとに発表した数値であり、いずれも自己申告で第三者の検証は経ていません。
06資産と評価
資産額とNVIDIA株の保有
フアン氏の資産額をリアルタイムで追跡する各種推計は、NVIDIA株価の変動に応じて日々動き、算出手法によっても幅がありますが、2026年上半期を通じて複数の推計が1,600億〜2,000億ドルの範囲で同氏を位置づけていました。ある2026年5月末時点のランキングでは、世界8位の富豪ともされています。NVIDIA自身が公表した2026年の委任状勧誘資料によれば、フアン氏は2026年3月23日時点で8億7,060万4,104株(会社全体の約3.58%)を実質保有しており、その資料の基準株価で計算するとおよそ1,910億ドル相当にあたります。このうち約5,870万株は、フアン氏個人ではなく「Jen-Hsun and Lori Huang Foundation」(フアン夫妻の財団)の保有分です。
この資産額は、給与とは別物です。NVIDIAの2026年委任状勧誘資料によれば、フアン氏の基本給は150万ドルで2025会計年度から変わっておらず、賞与や株式報酬を含む2026会計年度の報酬総額はおよそ3,630万ドルとされています。この金額自体、既存の保有株の評価額と比べればごくわずかにすぎません。
フアン氏の資産のほとんどは、NVIDIAが支払う報酬ではなく、1993年の創業以来保有し続けているNVIDIA株そのものから生まれています。
フアン氏のNVIDIA保有株の内訳
- フアン氏個人の保有分約8億1,190万株(93%)
- 「Jen-Hsun and Lori Huang Foundation」保有分約5,870万株(7%)
台湾での「ジェンサニティ」
生まれ故郷である台湾を訪れるたびに、フアン氏はチップ業界の経営者というよりも芸能人並みの人だかりと報道の注目を集めており、この現象は評論の中で「ジェンサニティ」と呼ばれるようになりました。2025年のComputex台北を前にした来訪時には、パパラッチとNVIDIAグッズのポップアップストアに迎えられ、2026年5月には、NVIDIAの台北新本社プロジェクトに関連した社員向けイベントのために再訪。2026年6月1日には台北流行音楽センターで基調講演を行っています。
台湾ほどの街頭レベルの熱狂ではないものの、日本でもそれに近い形での要人待遇を受けています。2025年4月には、石破茂首相が東京の総理大臣官邸でフアン氏の表敬訪問を受けました。

フアン氏の基調講演は、このCES 2025(ラスベガス)のように、台湾以外でもNVIDIA屈指の集客力を誇ります。台湾での歓待ぶりは、下記の通り、報道で「ジェンサニティ」と呼ばれるほどの現象へとエスカレートします。
写真: Joseph Zadeh、CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons経由- 2025年Computex台北:パパラッチとNVIDIAグッズのポップアップストアに迎えられる
- 2025年4月、東京:石破茂首相による表敬訪問の受け入れ(総理大臣官邸)
- 2026年5月、台北:NVIDIA新本社プロジェクト関連の社員イベントのため再訪
- 2026年6月1日、台北:台北流行音楽センターで基調講演
受賞歴、2025〜2026年
フアン氏はNVIDIAのチーフサイエンティストであるビル・ダリー氏とともに、2025年のクイーン・エリザベス工学賞を共同受賞しました。IEEEは2026年、同学会最高の栄誉であるIEEEメダル・オブ・オナー(賞金200万ドル)の受賞者にフアン氏を選出しています。フィナンシャル・タイムズは、NVIDIAが同年10月に時価総額5兆ドルに達した初の企業となったことと結び付け、2025年の「Person of the Year」個人部門にフアン氏を選びました。
- クイーン・エリザベス工学賞、2025年(NVIDIAチーフサイエンティストのビル・ダリー氏と共同受賞)
- IEEEメダル・オブ・オナー、2026年(IEEE最高の栄誉、賞金200万ドル)
- フィナンシャル・タイムズ「Person of the Year」、2025年(個人での選出)
しばしば混同されますが、別の賞であるTIME誌の「2025年 Person of the Year」は、フアン氏個人ではなく、他の複数の経営者・研究者とともに同氏も含まれた「The Architects of AI」というグループ特集の表紙が選ばれたものです。
07輸出規制と後継者問題
対中輸出規制をめぐる乱高下
2025年4月、米政府はNVIDIAの「H20」チップ(従来の対中輸出規制に対応するために設計されたAIアクセラレータの一種)について輸出許可を必須とし始め、事実上販売を止める形となりました。NVIDIAはこの四半期、売却不能となった在庫と購入義務に関連して45億ドルの費用を計上しています。米政府は2025年8月に方針を転換して許可の発給を再開しましたが、中国当局は安全保障上の理由から国内企業に購入を控えるよう促し、NVIDIAが同四半期に計上したH20の対中売上高は約6,000万ドルにとどまりました。2026年1月、米当局は新型チップ「H200」への規制もさらに緩和し、ほぼ全面禁輸から個別審査(25%の関税付き)へと方針を変更しましたが、2026年半ば時点でも、実際に中国の顧客に出荷された台数はごくわずかです。これも、米国側ではなく中国側の反発によるものでした。フアン氏は、NVIDIAが中国市場を単純に見限るべきだという見方に対し、時に厳しい言葉で公然と反論しています。2026年のあるポッドキャスト番組でこの点を問われた際には、「負け犬根性の人間に向かって話していると思わないでほしい」と応じました。
- 2025年4月:米政府がH20に輸出許可を義務化、事実上販売停止。NVIDIAは45億ドルの費用を計上
- 2025年8月:米政府が許可の発給を再開するも、中国側が国内企業に購入自粛を促し、同四半期のH20対中売上高は約6,000万ドルにとどまる
- 2026年1月:米当局がH200を個別審査(25%関税付き)へ緩和するも、出荷台数はごくわずか。これも米国側でなく中国側の反発による
後継者は指名されていない
NVIDIAはフアン氏の後継者を指名していません。
この点は実質的なリスクです。フアン氏を中心としたフラットな経営体制の下では、他の階層型の企業とは異なり、アーキテクチャや戦略に関する判断が、複数の後継候補に分散されているとは言い難いからです。1963年生まれで現在63歳のフアン氏本人は、「人生最後の日まで」NVIDIAの経営を続けるつもりだと公言しています。後継候補として公に名前が挙がったことはないものの、最も近いのは、在籍歴の長い次の経営幹部陣です。
- コレット・クレス氏:EVP兼CFO。フアン氏に次いで対外的に露出の多い経営幹部
- アジェイ・プリ氏:EVP、グローバル営業部門統括。2005年からNVIDIA在籍
- デボラ・ショキスト氏:EVP、オペレーション部門統括。製造・サプライチェーンを統括
08よくある質問(FAQ)
ジェンスン・フアンはNVIDIAを一人で創業したのですか?
いいえ。1993年、LSIロジック時代の同僚だったクリス・マラコウスキー氏、カーティス・プリーム氏の2人とともに共同創業しました。フアン氏は創業以来NVIDIAのCEOを務めていますが、マラコウスキー氏とプリーム氏は数年前に日々の経営業務から退いています。
ジェンスン・フアンはどのようにして世界屈指の富豪になったのですか?
ほぼすべて、1993年の共同創業以来保有し続けているNVIDIA株によるものです。大きく売却したことはありません。NVIDIA自身の2026年の委任状勧誘資料によれば、フアン氏は会社全体の約3.58%を実質保有しています。NVIDIAの時価総額が数兆ドル規模に達するにつれ、この保有株の価値も膨らみ、リアルタイム集計の資産額推計は2026年上半期を通じて1,600億〜2,000億ドルの範囲に達しました。
NVIDIAはなぜ創業初期に倒産寸前まで追い込まれたのですか?
NVIDIA最初のチップ「NV1」(1995年)が、業界の他社が採用しなかった描画方式を選び、商業的に失敗したためです。NVIDIAは従業員数をほぼ半減させています。フアン氏によれば、開発中のチップがセガの求める性能を満たせないと自ら当時の社長に伝えたにもかかわらず、セガは最後の500万ドルの支払いを実行し、その猶予でNVIDIAは1997年、会社を立て直すことになる「RIVA 128」を開発できたといいます。NVIDIA初期の製品史については、本サイトの別記事で詳しく扱っています。
ジェンスン・フアンにはNVIDIAの後継者がいるのですか?
公には指名されていません。NVIDIAは後継者を指名しておらず、フアン氏自身、今後も経営を続けていくつもりだと述べています。NVIDIAのフラットな経営体制がフアン氏個人に強く集中している以上、明確な後継計画が無いこと自体がリスクです。
09出典
01. 生い立ち:台湾からオレゴン州アロハへ
02. 大学からチップ設計へ
03. NVIDIA創業
05. 会社の命運をCUDAに託す
関連記事